明治の大御代も半ばの頃、新琴似部有地開墾に当って、榛茅繁茂し「罷狠」出没激しく、春秋の洪水等幾多の辛酸を経ていた。茲に小部貞次郎・木原常蔵・村上三蔵等が発起人となって、手稲の高峰を仰ぎ見る石狩原頭、流れ絶えせぬ新川の傍りに御座を定め、明治37年9月氏子を挙げて盛大に地鎮祭を斎行し、明治41年9月20日発起人小部貞治郎・木原常蔵・佐々木易吉・鶴巻豊吉・高木文次郎・三戸部義明・古川藤右ェ門を始め、氏子37名が鎮座祭に御奉仕申し上げた。昭和15年9月損傷により、皇紀二千六百年記念事業として、下新川青年分団が奉仕され、改築工事を施し、北海道開発庁の計画による新川拡張工事の為昭和31年9月20日造営会長神社総代近藤茂委員長・釜口利三郎・佐々木幸三郎・藤井米喜・佐々木養吉等が発起人となり、47名の氏子総代が供奉申し上げ、厳粛盛大に本殿遷座祭が奉仕された。